相模湾横断記
[ 石丸謙二郎レポート ]
最初に言い出したのは、3人のうち誰だったか忘れてしまった。
3人とは、石丸、大畠(おおはた)、安谷(やすたに)である。
ウインドサーフィンで相模湾を、三浦半島から伊豆半島まで、横断しようというのだ。一見、簡単そうに見える。直線距離は、45キロ。単純計算、プレーニングすれば、2時間以内で渡れる計算だ。
そう、誰もが思った。
ここに、障害が3つある。
★6~9mの南風が順風に、5時間以上続く事。
★3人のスケジュールが合致する事。
★伴走船がチャーターできる事。
この3つが同時にクリアできる日は、そうそう現れない。なんせ、役者と医者と社長である。
3人が休みの日に、たまたま良い風に恵まれて、伴走船の手配がうまくいくなんて、どんな確率で現れるものやら・・実際、確率は、計画を延々引き伸ばし、2年の歳月待たされた。しかし、「やるんだ!」という強い意思さえあれば、その日は向こうからやってくるものだ。
強い意思さえあれば、その日は向こうからやってくるものだ。
2010年、6月4日。
3人は、三浦半島の水戸浜で、深呼吸をしていた。横断のすべての条件が整い、初夏の朝の陽射しを浴びながら、最後のチェックをしていた。道具類を紹介しよう。
ボード=マイクスラブ110L、AB125L、スター134L。
セール=リバティセール、セブン8,5㎡
ドライスーツ、ライフジャケット、ハーネス(クロスオーバー)、防水携帯、笛、メガホン、キャメルバッグ1,5L、ヒモ2m×2本
沖には、城ヶ島の釣り船(一休丸)を営んでいる星野船長が、息子さんと共に、我々の出艇を待っている。同乗しているのは、ウインドの仲間の、仲平君と、依田桂子さんだ。あともう一人、テレビ製作のディレクター立川さんが、テレビカメラを持ち込んでいる。
「さあ、食事にしよう!」
私がふたりに声をかける。風が、もうすぐ強くなるのを見越して、ギリギリに腹ごしらえだ。「ひえ~~!」3人が、取り出した弁当を見て、3人が奇声を挙げた。<いなり寿司セット>全く同じ弁当を買ってきている。示しあわせたワケではない。それぞれ、違うコンビニで買い求めたものだ。確か、寿司だけでも数種類売っていた記憶がある。その中で、全く同じ弁当を3人が買ってくる確立やいかに!確率やいかに!我々は、弁当を頬張りながら、確信した。
《今日は、ツイてる》
12時ちょうど、南風が、吹き出した。石丸が右手を高々と挙げる。3人のハートに、ゼット旗が揚がった。皆の荷物をまとめて、到着予定地点に陸路、ハイエースで行くのは、ヨウコ隊員である。そのヨウコ隊員に最後のスナップを撮られ、我らは海の上の人となった。
風は、いきなり、8,5㎡のセブンを滑らせた。
風というものは、陸に近いところは、強い。沖に行くと、それより弱くなる。ドカンと走り出した3人に、軽い不安と、「ええいままよ」の度胸が据えられた。快調にプレーニングする。
水の色は、澄んだ青緑色。カモメもいなければ、トビウオもいない。沖合い1キロの所にある定置網を超える。
このあたりから、やや、風は弱くなる。出だし、7mだったのが、5mほどに落ちる。
しかし、プレーニングは止まらない。
伴走船は我々の、前方200mを走っている。仲平君の指示で、ナビを使い、目標物にヘサキを向けてくれている。空は晴れているのだが、ぼんやりと霞んでいるため、目標となる、真鶴半島が見えないのだ。
たとえ、我らが船を追い越しても、ヘサキの向きを見さえすれば、方向が解る仕組みだ。
40分が経過した。北の方角、セール越しに、小さく江ノ島が見えている。
10キロちょっとの距離である。つまり、江ノ島辺りの海岸を走る車からみると、10キロちょっと沖合いをウインドサーファーが、プレーニングしているのである。もちろん、肉眼ではほとんど見えない。
っと、風に力がなくなり出した。
思う間もなく、3人同時に止まってしまった。風速、3m。
3人の頭に、去年の事が浮かぶ。
昨年の5月、一回目のチャレンジをしたのだ。
水戸浜を出発し、順風と思いきや、5キロのところで、風がパタリとやんだ。
3人は、お互いをヒモで結んで、風が上がるのを待った。
しかし、いつまで経っても、上がる気配なし。
断念の首を振るしかなかった。
(また、チャレンジ失敗となるのか・・)
石丸の不安をよそに、大畠、安谷は意気揚々としている。
伴走船から、バナナやスポーツドリンクを受け取り、小学生の遠足気分である。
この船からの受け渡しは、魚をすくうタモで行われる。
タモに入れられたバナナや飲料を、押し頂くのである。
よって、我々は、水族館の餌を貰うオットセイの気分を味える。
バナナを頬張りながら、足の下にある、深さ1000mを超える海を感じている。
たとえ、1000mであろうが、2mであろうが、溺れる時は溺れる現実を感じとっている。
伴走船が我らに近づく時には、風下からやってきて、横付けする。
もし、風上に船をつけると、我らを巻き込んでしまう。
逆に風下だと、船のほうが風を受けて流れやすいので、すぐに離れてしまう。
横付けする際には、船からテニスボールにロープを括りつけたモノを投げ、それを我々が、たぐり寄せる。
万が一のレスキューも同じ要領である。メガホンも役に立つ。
海上では、微風といえど、声が聞こえない。小さなメガホンで、やりとりする。
横断中、船と我らは、フラッグで会話する。船に、2種類のフラッグが積んである。
☆ 赤白旗 =船に集まれ
☆ 青黄旗 =船、レスキュウ中
☆ 2旗掲載 =船トラブル
我ら同士のシグナルもある。
▼ 集まれ =手のひらで頭を叩く
▼ 船に集合 =手をグルグル回す
「やりますかぁ~!」
3人足すと、164才のエネルギーが、ついに相模湾に風を甦らせた。
風が吹き出したのだ。
20分の休憩で、後ろ足(右足)の力が戻った。
横断プレーニングのネックは、片側プレーニングである。
今回は、南風なので、ポートタックでの走行となる。
従って、左足のスネの筋肉と、右足のふくらはぎが悲鳴をあげる。
ウインドサーファーで、1時間同じ向きで、プレーニングし続けた方がいるだろうか?
筋肉はまだいい、問題は右ヒザの関節だ。足して164才は、足して164年間ヒザを酷使し続けてもいるのだ。
楽観できる点があるとすれば、3人のうち一人・大畠が、整形外科医であるという安心感である。
なんたって、海上で、ウインドサーファーの脱臼を治したという名医である。
風が戻った途端、どんどん強くなり始めた。
4mの風で走りだすセブン8,5㎡であるが、どこまで耐えられるのだろう?
すぐに、6~7mに風速があがる。うねりが出始めた。
うねりの為に、艇速があがらない。1時間ほどすると、8~9mと強くなった。
こう書くと、「ああ、うねりネ」とウインドサーファーなら、うなづく。
しかし、私達が普段知っているうねりとは、岸に近いところに発生しているうねりだ。
そのうねりは、定期的であり、同方向のうねりである。
ところが、沖合いのうねりに、初めて出会った我々は、横断のなんたるかを知らされた。
《2階の窓から、波が落ちてくる》
《あっちからもこっちからも波がくる》
たかが、9mの風で沸き起こった波の高さが、前を走っているセールを見えなくする。
490のマストが見えなくなる。波を登ったり降りたり。その波の周期が、でたらめで、かつ細かい。
[立川ディレクター後日談]
「あの時点で、もの凄い船の揺れと、アップダウンの繰り返しで、船酔いしてしまい、カメラが回せませんでした。」
(彼は、プロのカメラマンではないのであしからず)
今、《我らは、沖のうねりに始めて出会った》と、述べたね。
実は、3人の中で、一人だけ、初めてでないヤツがいる。
とんでもない横断をしたヤツがいるのだ。
<ヤスタニ>
彼は、16年前、世界初の大西洋横断レースの、優勝チームのオーナーである。
といってもピンとこないであろう。
当時、さほど情報公開されなかったので、知らない方の方が多い。
ニューヨーク沖ニューファンドランド島から、イギリスのウエールズまで、ウインドサーフィンで、大西洋を横断するレースが催された。直線距離にして・・え~と何千キロ?よくわからん。
とんでもないレースだ。
映画「翼よ、あれがパリの灯だ」に匹敵する快挙である。その優勝チームを引っ張っていったのが、ヤスタニである。今回の安谷を、そのヤスタニだと思い、この物語を読み進めると味わい深い。
さて、我らの横断もなかばを過ぎた。
あまりの、波高の為、プレーニングしているにもかかわらず、時速20キロも出ていない。
波をかけあがり、かけくだる。ウエーブでも、こんな無茶苦茶な波はないだろう。
と、ここで、風がフレたのに気付いた。やや西にフレた。つまり、目標の真鶴半島に向かうには、かなりの登りになる。どうみても、タックを入れて、登りレグを作らなければならない。
そこで、まず、先頭の石丸がタックをする。
続いて安谷がタックする。
3人目の大畠がタックをする。
ここで、かねてよりの心配が湧き起こった。
どういうことか?
石丸は登りレグが得意である。アップウインドレースの常連でもある。
ところが、大畠、安谷は登り経験があまりない。
3人同時に登ってゆくという練習をやっていなかった。私の目測では、上(カミ)に、5キロは登らなければならない。
走行距離としては、13キロ強の余分な走りになる。
そして、問題は高波だ。
高波に押され、大畠がチンをする。
チンしたついでに、ダウンテンションを引いている。ついでに引く状況ではない。この高波の中で、ダウンを引くとは、いい度胸である。度胸では成しがたく、リグごと、波に巻かれてひっくり返っている。
石丸が、シバーをしたまま、待つこと十数分・・
ふと見ると、安谷がいない。
首をねじると、はるか風上をひとり登っている。強風と高波の中、シバーしていられなかったのだ。走っているしかなくなったとも云える。
(あとで、訊いて見た。「なんで待ってなかったの?」 「え~と、ボクだけ、もう行っちゃおうかな~っと」)
2対1に分かれた我ら。
1とは、安谷である。
2である、石丸、大畠は、二階建てバスのようなうねりを乗り越え乗り越え、風上へ、スタボーを伸ばす。
安谷は、さらにタックをうち、ポートを伸ばしている。
3人は大海原に、アホみたいに広く、散らばったのである。
伴走船の船長が、仲平君に質問する。
「どっちの人達に向かえばいいんですか?」
「3人の真ん中を風上にまっすぐ風上に登ってください。そうすれば、そのうち、一箇所に集まってきます」
1時間ほどの格闘後、仲平君の予言に似た言葉通り、2対1は、元の3になった。
その時、まだ遠くだが、真鶴半島の島影が見えた。
よぉし、最後のプレーニングだ。
3人が、ギアをトップに入れる。
タックを余儀なくされたおかげで、両側の筋肉をもれなく使い、ストレッチ効果で身体にキレがでてきた。
伊豆半島に近づくにつれ、海面もフラットになってきた。
陽が傾き、ノーズの前の海面がギラギラと輝く。
すでに、4時間走りっぱなしだというのに、我らは、笑顔で走り続けている。
ウインドサーフィンにも、ランナーズハイがあるのだろうか?
走る・・走る・・走る・・
どれくらい疾走しただろう。
真鶴港が目の前に見えた所で、突然、風がおちた。
まるで、電球が切れるかのごとく、風はやんだ。
泳いでも行ける距離ではあったが、伴走船のピックアップで港入りとなった。
走行距離、55キロ。4時間30分。
終わり・・・
っと、ここで、お話は終えたいのだが、我々は、ここからが、面白い。
まず、予約してあった温泉宿に行く。
温泉どっぷり浸かって、日本酒で・・・とはいかない。
湯上りに、これまた予約してあった丘の上に建つ、海の見えるイタリアンレストランで、ワインである。
今来た海路に当たる夕焼けを眺めながら、ガーリックオリーブオイルにまみれるのである。
石丸「ねえ、なんで、一人で先行っちゃったの?」
安谷「いやあ~まいったまいった・・あははは」
大畠「明日、帰りも、やるぅ?」
おバカな3人を助けてくれた・・星野船長、息子の拓也君、立川さん、仲平君、依田さん、ヨウコ隊員、出発を応援してくださった高木さん、出発を見送ってくれたティアーズの仲間、この冒険を噂でききつけ激励メールをくれたウインド仲間、小林家のみんな…
ほんとうにありがとう。
アナタ達のエネルギーが、私達を次なる冒険にかきたてる!